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お問い合わせ
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牧師:比留間 初美
159 N.Bellefield Pittsburgh, PA 15213
TEL:412-478-8443
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ひるるん亭
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給油
「教会はガソリンスタンドではありません。」
当然です(笑
でも、教会をガソリンスタンドと勘違いしているクリスチャンも少なくないようです。
そういう人は、車がガソリンスタンドで給油するように、
日曜日は一週間で使ったエネルギーを補給するために教会に来ます。
「完全なる自由」の中を歩むクリスチャンには
いつも、どんな時にも、絶えず神様からの満たしがあります。
車でいうと、ガソリンの給油ホースが
常にタンクにささっていて、使っても使っても満タンという状態です。
日曜礼拝は、エネルギー補給のためではなく
感謝と賛美と自分自身を神様に捧げるためのものです。
「受ける」と「捧げる」には大きな違いがあります。
受ける気持ちの人が、与えるはめになったら、不満で満たされ
与える気持ちの人が、受けるなら感謝で満たされるわけです。
「常に与える気持ちでいる」これが神様からの恵みを受け取るコツです。
「完全なる自由」の中を歩むクリスチャンは
走っても走ってもガソリンが減らない夢の車ならぬ
夢の体を持っているわけなのです。
「神様、絶えず、私を満たしてくださることを有難うございます。
いつも、あなたと共に歩み、感謝と賛美を捧げます。 アーメン」
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」 ヨハネ15:5
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心の戦い
イエスキリストを心にお迎えして歩むクリスチャンには、心の戦いがつきものです。
すべての罪が赦されましたが、人間には神様に逆らってしまう性質があります。
その心にイエスキリストが入ってくることによって
自分の思いと神様の思いの間で戦いが起こるわけです。
例えば、
「神様は、問題を委ねなさいと語っているのに
自分は、神様のことを忘れて、自分で解決しようともがいてしまう」とか
「神様は、将来やお金のことは心配いらないと語っているのに
自分は、将来が気がかりで、お金の心配ばかりしてしまう」とか
「神様は、互いに仕え、愛し合いなさいと語っているのに
自分は、人の悪いところばかり気になって、人を責めてしまう」などなど
様々な生活の場面で心の戦いがあります。
そして、その戦いで神様の道を選ぶときに
神様が用意しておられる祝福を受け取ることができるわけです。
皆さんは、「心の戦い」がありますか?
ない場合は、要注意です。
イエスキリストから遠く離れている可能性があります。
神様からの祝福を受け取るには心の戦いが必要で
その戦いに勝利することが必要です。
勝利するためにやることは、ただ一つ
「いつも、どんなときでも、イエスキリストを愛し、共に歩むこと」です。
そして、神様にすべてを満たしてもらえる「完全なる自由」を体験できるわけです。
「神様、イエスキリストを愛し、どんな時にも共に歩みます。
あなたが用意しておられる祝福を受け取らせてください。
イエスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン」
「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。
あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」 イザヤ58:11
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永遠なる神
「永遠」という言葉なしには「完全なる自由」は語れません。
なぜなら、「神様は永遠」だからです。
「永遠」という言葉をインターネットで調べたら
「果てしないもの。終らないもの。時間を超越するもの。」と書いてありました。
永遠には時間の概念はないわけです。
そして、長さだけじゃなくて、広さや、深さ、高さも永遠なわけです。
アダムとエバがエデンの園にいたときは、その永遠の中にいたわけです。
二人には時間がなく寿命もありませんでした。
それに加え、「神様と一致している心も永遠」で
人間関係などにも距離感はなく、敵味方もないわけです。
そして、自然や動物とも距離感はなく調和していたわけです。
ところが、人間に罪が入ったことによって
人間は、自然の猛威にさらされ、
弱肉強食がうまれ、病気がうまれ、寿命もうまれ
人間関係を含めあらゆる問題を抱えるようになったわけです。
そして、罪の入った人間の心が人間自身を縛り窮屈にしているわけなのです。
しかし、神の一人子、イエスキリストによって、人間を縛っていた鎖はとかれます。
イエスキリストを信じることによって、すべての問題に解決が与えられます。
そして、「永遠の命」を受けることによって
時間にも解決が与えられ、永遠に神様と生きることができます。
「完全なる自由」の中を歩むことができるわけなのです。
「神様、イエスキリストを信じます。今あるすべての問題に解決を与えてください。
そして、完全なる自由のうちを歩ませてください。
イエスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン」
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」 ローマ8:2
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命の源
最近、ひるる亭Kzはよく釣りに行きます。
季節も良くなり、美しい自然に囲まれ最高のひとときです。
神様を賛美せずにはいられないわけなのです。
前回は「完全なる自由」ということで書きましたが
イエスキリストの十字架によって罪が許され
再び「神様と一致」し「完全なる自由」を頂いたクリスチャンにとって
守るべき規則はないのでしょうか?
交通規則を含め社会の規則です。(笑
守るもべきものとして「キリストの律法」というのがあります。
それは、キリストにとどまるということです。
本当の意味での「生きる」とは、キリストの命がなければ成し得ません。
それと同時に「完全なる自由」もないわけです。
「キリストのみが生きるための、自由のための、律法」というわけなのです。
でも、「キリストの律法」といっても、規則ではありません。
『愛する人にとどまるのは規則ではなく喜び』だからです。
キリストを愛し、「命の源」としてより頼んでいくとき「完全なる自由」が得られます。
「神様、あなたの愛によって、罪の許しが与えられたことを有難うございます。
イエスキリストを愛し、とどまり、命の源とし、より頼んで歩みます。
完全なる自由に導いてください。
イエスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン」
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」 ヨハネ15:5
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完全なる自由
前回、アダムとエバのことを書きましたが今回も続きです。
二人がエデンの園にいたとき
神様の規則のようなものを守って生活していたんでしょうか?
「善悪の知識の実を食べてはいけない」
という約束はありましたが、それ以外はありませんでした。
ということは、その約束以外は完全なる自由だったわけです。
二人は、欲すままに行動し、会話し、食事をし、生活していました。
ひるるん亭Kzでいうと、毎日焼肉とお好み焼きと言うことです(謎
二人には「神様との一致」がありました。
二人が欲すものはすべて、神様の御心だったわけです。
「神との一致」なくして、「完全なる自由」はないということです。
しかし、人間に罪が入ったことによって「神との一致」を失ってしまいました。
それと同時に「完全なる自由」も失ったわけです。
(`・ω・´)シャキーン
そこで登場するのがイエスキリストです。
イエスキリストの十字架の罪の許しによって、
そして、生活のすべてをイエスキリストに委ねることによって、
再び「神との一致」と「完全なる自由」が与えられるわけなのです。
「神様、イエスキリストによって再び、あなたとの一致が与えられる事を有難うございます。
人生のすべてをイエスキリストにお委ねします。
わたしを、完全なる自由へと導いてください。
イエスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン」
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、
あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」
ヨハネ8:31-32
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恵みの地
新ホームページになったというとこで
基本に戻ろうと思います。
基本といえば、最初の人間、アダムとエバなわけです。(謎
アダムとエバは、善悪の木の実を食べる前、エデンの園にいたわけですが
このとき、どんな生活をしていて、どんな会話をしていたんでしょうか?
善悪が入る前なので、二人の生活の中には
「善も悪もない」わけです。
じゃぁ、なにがあったんでしょうか?
わかることは、「神様との一致」で二人は暮らしていたことです。
ということは、二人の生活、会話、行いなど、神様の御心だったわけです。
しかし、二人が善悪の知識の実を食べた後は、人間に罪が入り、
「神との一致」を失ってしまいました。
そして今も尚、罪の性質を受け継いでいるわけです。
ここで、必要になってくるのが、神の律法です。
「人間は、神の律法を守ることは出来ません。」
「神の律法は、人間が守ることのできない原因である、罪を示すもの」なわけです。
交通規則によって交通違反が示されるのと同じようなものでしょうか…
(交通規則は守りま笑
「神の律法は、人間の不完全さを指摘し、やるべき事を示すもの」です。
そして、イエスキリストの十字架の罪の許しによって人間は再び、神様と交われる場所
恵みの地に戻ることが出来るわけです。
「神様、イエスキリストの贖いを信じます。
また、イエスキリストを人生の主として心にお迎えします。
わたしを、恵みの地へ導いてください。
イエスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン」
『律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、
義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 』 ローマ5:20-21
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新ホームページ
ピッツバーグ教会が8周年ということで
4年ぶりに、ホームページをリニューアルしました。
今回のホームページも前回と同様
「ハレルヤ!元気になる合言葉」というタイトルです。
ページの右上にある写真は、
過去のホームページでトップを飾った写真のなかで、特に綺麗なやつです。
季節感はありませんが…(笑
(注意!PCによってはトップのFLASHが表示されないようです。(汗
また、写真の下に書いてあるのは、このホームページの主題聖句なのです。
新ホームページのために、お祈りしてくださった皆さん、有難うございました。
続けてお祈りください。
「神様が、このホームページを豊かに用いてくださり、
神様の御栄光が現れ、神様の業が成されますように。
神様を知らない方々が、神様の御愛を知り、イエスキリストを知り
人生の主として心にお迎えできますように。
また、神様を知っている方々が、命のパンである、神様の御言葉を心に蓄え、
ますます、主の弟子として力強く前進し、神様に、御栄光をお返し出来ますように。
イエスキリストの御名によって、お祈りしています。 アーメン」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 マタイの福音書4章4節
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